ブログを運営するに当たっての試行錯誤や考えを述べるブログです。
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 掲示板やCGIゲームなどにあるコンテンツが自ら発展して集客能力のある存在になる現象。サイト運営者側視点ではとっても、とっても素敵な事だ。なにせ、ほら、楽ができる(ひとたび荒れはじめた時のリスクはある)。
 しかしながら、ブログのコメント欄に同様の効果を期待するのは流石に無理だと認めざるを得ない。

 まずどうしても記事の存在が前提になってしまう事がある。記事を投稿するのは運営者なのだから、やはり楽ができない。最低でも「スレ立て」の手間はあるということ。
 そして古い記事に満遍なくコメントが増えていくような現象もまず無理だ。2ちゃんねるだって、同じスレを使い続けずに新しいスレが立っていくように新陳代謝効果があるが、記事のコメント欄にそれは期待できないのだ。
 だいたいコメントする人にとっては記事の書き手に意見するのが目的の場合が多いのだから、交流が促進されても運営者の手入れが常に必要とされる場合が基本で「自己発展」とはいいがたい。

 けっきょくブログのコメント欄に期待できるのはコメントとそれへのレスによって記事の価値を上げていく効果が限界であるようだ。それでも充分に素晴らしい、のだが。


関連自記事
コメントしやすいブログ
 この前読んだ本と新聞~再販制度を考えるという本で消費者と読者を区別して考えていたのが気になった。本などの価格を一定にする再販制度がなくなると本は公共性を失い、マイノリティの代弁者として機能できなくなり「消費者」のものにされてしまうとか。
 まぁ、再販制度の是非はおいといて、読者を文章を読み解く個人、消費者を一時的な快楽のために文章を消費する集団と受けとると近いかもしれない。ふたつはまったく異なるスタンスであり良い悪いで片付けられるものではない――そもそも同じ人間の別の反応にすぎない――が、発表メディアの属性や運営者の態度によって見る人にどちらが多いかはある程度わけられると思う。
 しかも個人サイトは再販制度に保障されているからではなく、ボランティア精神によっているという理由で「読者」をテレビなどより得られる可能性をもっていると思う。今回は特にブログにおける読者と消費者の要素について考えてみた。

・読者を得やすい要素
 コメント欄やトラックバック欄を開放しているブログは読者の意見を受け容れる姿勢を打ち出している。双方向性をもつことは見る人から個人を浮かび上がらせる傾向がある。
 多くは権威やネームバリューによらない個人が運営していることも、その意見の絶対性の低さから逆に見るものに考えさせる要素をもっている。通常「正しい文章」を読む場合は、真意を伺う事はできても意味の枠を超えて反対意見をもつことはできない。

・消費者を得やすい要素
 ブログは更新が非常に手軽であり、軽い感覚であげられた記事はそもそも見た者を深く考えさせるだけの意見が含まれていない場合がある。記事が軽くて早くて多いことは――ちょうどファストフードが賞味ではなく消化されるように――消費の反応を招きやすい。
 また記事の内容は細かく分断されており、それぞれ一つ読んだだけでは運営者の「思想体系」みたいなものに触れる事は難しい。記事を「消費」するのか、ブログを「読む」のか、ふたつのスタイルの差でもある――ニュースサイトの存在は多くの場合、前者を促進する。有能な編集者としての技量を発揮してリンク集で考えの体系を形づくる場合は異なるが。


 運営者の側からみれば読者を得たいのに消費される、消費されたいのに読まれる、どちらも困った問題だ。後者も精神安定上あまりよろしくない。
 とはいえ、そもそもブログが見られない事に比べれば贅沢な悩みだ。
 個人的には読まれない読者向きブログを運営するより、消費される消費者向きブログを運営したいと考えている。いちおう最終的に目指すところは読まれる読者向きブログだが。
 当然の事だけど自分の言葉がいちばん理解できるのは自分だろう。逆にいうとできるだけ読者が日々使う言語に近いものを使った方が、考えの伝達はうまく行くという事だ。どんなに「高尚で」優れているように見えるサイトでも、「ポピュラー」なところに読者数で勝てなかったりする原因のひとつはこの言葉の問題にあると思われる。
 ただ、普通の言葉でよく伝わる内容はだからこそ瞠目に値する「何か」をもっている必要性に迫られ勝ちだ。これはこれで難しいどころか、最大公約数的な文章も考えるより産むが難しい類のものなので二重に難しい。

 だから内容だけでなく文体の力によってオリジナリティを出そうとする戦略も間違ってはいないと思う。問題はやはりあまりにも多数者に受け容れがたい要素に満ちていると読んでもらえない事で、構文なり単語選びなり親しみやすい部分は残しておかないと印象はあっても再読はされない文章になってしまうだろうな。


 反対に誰もが読みたくなるような魅力的な内容で書かれた文章が、意味を通じさせる事は読者の中で「分かりやすい文章の形」を変えていく可能性がある。そうやって言語は変化しながら均質性を保とうとしているのではないか。
 まぁ、情報の氾濫した社会で、そんな大それた真似は手に余る。せめて多数派向きの文章と印象的な言葉選び、含蓄に富んだ内容をそれぞれ少しでも伸ばせていけたら幸いだ。
 ブログの読者が増えるほど、コメント欄を開いておく困難は増すだろう。運営者の性格にもよるが、いろいろな意見をもっている人間のいるネットで発言して摩擦が0というわけにはいかない。問題はそれとどこまで折り合いをつけていけるかだ。

 まず最初の心理的な負担になりそうなのは攻撃的な批判だ。イレギュラー的に読者の絶対量が少ない時でも、それは起こりうる。むしろあまり大手のブログになってしまうと正面からの攻撃は行われにくくなるかもしれない。
 まぁ、これは勲章と思って受けとっておくのが精神衛生によい。
「何も悪いコトはしていないのに、悪口を言われるようになったら君はもう、大物だ!」by山口貴由先生

 次にレスの負担がくる。何よりも更新を優先させたい場合はコメントにレスをするのがブログ運営全体の負担になってくる可能性がある。別にレスをする義務があるわけじゃないのだが、慣例上それを続けてきて読者の増加にともなって対応できなくなるパターンは存在するだろう。

 レスをするのを控える事にしたとしても、完全に放置してよいわけではない。掲示板と同じく管理責任はあるので一通り目を通しておく必要がある。これすら負担になる状況は極珍しいだろうが。


 そして問題があってコメント欄を閉鎖したからといって、問題が生じる根本原因を解消したことにはならないことに注意が必要だ。場合によってはコメント欄を解放して意見を戦わせた方が勘違いが生じる危険性を減少させて、建設的にブログ運営を続けていけるかもしれない。
 受動的な弁明の機会も与えられず遠巻きに敵意が醸成されていく方が、正面から否定されるよりよっぽど恐ろしいようにも思われる。
 更新が遅れても謝る必要はないと思うよという記事を書いたけれども、更新が遅れる事を通知しなくてもよいというわけではない。いや、読者をできるだけガッカリさせない方がよいというべきか。
 それでもまとめて空ける時くらいしか状況を通知ができてないのは、通知をすることによって自分のテンションを下げてしまいそうだから。「今週は遅れていい、というか言った以上は遅れなくちゃ」みたいな気分になると、そのままより動きがギザギザしそうで嫌なのだ。
 あとはいつも更新できているのが、毎回毎回、「私の中では特別」と感じているのも原因だろう。いつも月曜日にジャンプ感想を書けているけど、普通は遅れたり混乱したり感想書けなかったりするものだ、と実は心のどこかで思っている。
 おそらく、その方が一回のつまづきで全体を狂わせずに済むからなんだけど――ウチの読者の感じ方とは乖離してそうなことだ。

 まぁ、いろいろ難しいけど可能な限りほどほどに――ケセラセラ~。
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